”生きる練習”はできないから…

生きていると、いろんなことが起こりますよね。
毎日、毎週、毎月、毎年いろいろ…
いつなにが起こるかはわからない。
あなたにも、私にも、誰にも。
もしかしたら、未来予知ができる人や霊感がある人なら、いつ、なにが起こるのかがわかっているのかもしれないけど…
この世界に存在している大多数の人は、いつ何が起こるかわからない状態で毎日を暮らしてる。
”生きる練習”はできないから、みんなぶっつけ本番で一度きりの人生を生きているんですよね。
人生はぶっつけ本番

そう考えてみると、人生で失敗することがあるのは当たり前のことなんじゃない?!そう思えてきませんか?
そもそも今の私たちが”失敗”と呼んでいるものは、失敗だと思う必要すらないのかもしれません。
ぶっつけ本番の人生。
自分が進む道は、ぶっつけ本番で決めるしかない。
ひとりひとり、完全オリジナルの1人の人として存在しているのだから、誰かがうまくいったのと同じ道を選んで進んでも、同じようにうまくはいかないかもしれない。
たとえうまくいったとしても、それが自分で選択した道じゃなければ、本当に心の底からやりたかったことじゃなかった!とどこかで気づいて、振り出しに戻ることもあるかもしれない。
いずれにしても、
「あなたのやりたいことはこれ。進む道はこっちですよ!」
と教えてくれる人はどこにもいなくて、選び方のマニュアルがあるわけでもないですよね。
もしかしたら、なにかのアドバイザー(?)とか、占い師さんとか、いろいろな方法で進む道を示してもらう方法はあるかもしれない。
そういう方々のチカラを借りる、というのも一つの選択としてアリだったとしても、結局は自分で「これだ!」と決めないと進めないわけで。
進む道を示してもらったとしても「そのために今日はあれして、明日はあれして…」って教えてくれる人はどこにもいないし、仮にいたとしてもそれじゃあ誰の人生を生きているのかがわからなくなってしまいますよね。
そんな中で、どうにかこうにか、進む道だったりなにをするか選択するわけで、人生のいつかどこかのタイミングで
「あ、進む道こっちじゃなかったかも」
と気づくことがあっても、なんら不思議なことじゃないのでは?と思うのです。
本当はないのに探してしまう”正解”

ところが、私たちは学校や社会の中で『人生には”正解”があって、正解に則って生きる必要がある』
こんな風に教えられるように思います。
進路を決めて、良い企業に勤めてキャリアを積むとか、昔は退職までひとつの会社で働き続けるのが当たり前。でも、今は時代が変わって、3年働いたら条件の良い転職先を探すとか、起業するとか…
そんな”流れ”に乗っていないとヤバい、と思わせられる。
だけど、本当のところは人生に正解はないから、則ることもできないわけで…
そんな中で、
正解に則って生きてる!と感じて幸せな人もいる。
正解はないって知っていて、自由に生きて幸せな人もいる。
正解に則って生きているけど幸せを感じてない人もいる。
正解に則って生きてない!と不安を感じている人もいる。
つまり、結局大事なのは、自分で選んだ道を正解と思えるかどうか。
なんですよね。
ところがここでも、そうとわかってはいるけど、そうとはスッキリ割り切れないっていう方が実はたくさんいるかもしれません。
そのスッキリ割り切れない理由はというと、心の奥底に”やっぱり正解ってあるんじゃないか?”という想いがあるからだったり、自分が選んだ道を”人にどう思われるか”を気にしてしまうから、ではないかと…
そして、”正解はないんですよ”、”人にどう思われるのかを気にする必要はないんですよ”と言われて、「そうだよね!」とは思うけど、やっぱり正解探しをきっぱりやめることはできなくて、人にどう思われるかを気にするのもやめられない…
そんなもどかしい状態になってしまうからではないでしょうか。
正解を探して、人目を気にしてしまうワケ

なにを隠そう、過去の私がそうでした。
はじめは、人生には”正解”があると思っていました。
明らかに正解に則っていない人生を生きながら笑、正解を探して右往左往しながら、そんな自分が人からどう思われるか?をいつも気にしていました。
そこから、人生に正解はないし、人にどう思われるかを気にする必要はないんだ、と気づきました。
気づいたからには正解探しをもうやめたいし、人からどう思われるかを気にするのもやめたい!
そう思うのに、それができない…
と、どうしたらいいかわからない状態になりました。
そんな状態が長く続きましたが、しつこく答えを探し求めていたある時、正解探しをしてしまう、人からどう思われるかを気にしてしまうワケがついにわかったんです。
そのワケは…
自分が自分として、いまここにいることを許せていなかったからでした。
『自分にはなにかが足りない』という劣等感や無価値観が潜在意識の中にあったことで、違う自分にならないとここにいてはいけないと感じていたことに気づいたのです。
”正解”に則って生きられれば、ここにいていいと思えるような気がして。
人から良く思ってもらえたら、ここにいていいと思えるような気がして、反対に人に認めてもらえないと「ここにいてはいけない」気持ちが強くなるから、そう感じるのが怖くて。
ずっと、
自分が自分として、いまここにいていい
そう思えるようになる理由、ここにいる、ここに在ることを自分自身に許可するためのかっこたる理由を探していたのでした。
正解探しも、人からどう思われているかを気にしてしまうのも、なんとか自分を保つために、自分を守るためにやっていた。
だからやめようと思ってもやめられなかったのでした。
「やめたいのにやめられないの、つらいよね…」
「でも、それは自分自身のためにやってることなんだよ」
あれから何年も経ち、あの頃より生きやすくなった今、あの時の自分になにか言ってあげられるとしたらこう言いたいですね。
そもそもここにいていいから、ここにいる

いま過去の私のお話に共感してくださった方がいたら、あなたに伝えたいことは…
あなたはそもそも、いま、ここにいる時点でここにいていいんだよ
ということです。
私たちが生まれたということ=存在する価値がある、ということ。
生まれた時点ですでにここに存在することを許されている、ということです。
成長する過程で存在するには条件があると考えるようになって、この【思考】によって”本当のこと”を忘れてしまったのかもしれません。
”本当のこと”というのは
生まれたということ=存在する価値がある、ということ。
そして
一人一人の人の存在に価値がある、ということです。
素晴らしい人間だから
美しい人間だから
友達がたくさんいるから
お金を持っているから
仕事ができるから
人に認められるような仕事をしているから
大きな家を持っているから
高価なものをたくさん持っているから
…
このような条件を満たしているかどうかは一切関係なく、一人一人の人に価値があります。
少し目に見えない世界の話になりますが、ここにいてはいけないと感じたり、自分を信じられなくて卑下してしまうのは、あなたの中に宿っている魂に対してとっても失礼なことです。
今ここにいる、という事実があなたが存在を肯定されているという紛れもない証拠。
自己肯定感が低い状態、というのはこの事実をすっかり忘れてしまった状態だということ、なのです。
ここにいる時点で、無条件に存在を肯定されている、ということになります。
自己肯定感が低いことに悩んでいる方は、いまからこの揺るぎない事実を思い出していけばいいのです。
ここにいることが許されている。
だから、私はここにいる。
私は私としてここにいていいんだ。
そんな揺るぎない安心感で心の中を満たしていくことで、正解探しや人にどう思われるかを気にすること、そういったやめたくてもやめられなかったことをやめることができます。
悩みが悩みではなくなって、生きづらさも解けていくはずです。
大切な、重要な事実を思い出して、もっと自由にこれからを生きていきましょう。